サイレント・ナイト・・(聖夜)

《死ほど安楽なものはないし、静寂な世界はない。 それは、生まれる以前の世界。宇宙。無限の何処か…》

A子は家に帰るとすぐにヘッドフォン型トランシーバーを頭につける。

スイッチをONに入れると、そのわずかな雑音が伝わるのか、夫であるB男からの問いかけがある。

「おかえり…」

その問いかけに「…ただいま」とA子は応答する。

このやりとりはここ数年変わっていない。B男もまたトランシーバーを頭に取り付けているのだ。

他の人から見たら、同じ家の中にいながら、どうしてあの二人はトランシーバーを付けて話し合ってるのだろう、と不思議に思われるかもしれない。

それは十分に分かっている。おかしな光景であることは十分に承知している。
しかし、これが今の我が家の生活スタイルなのだ。
ここまで来れたことだけでも、私は嬉しいことなのだと、A子は思う。

A子46歳。B男56歳。夫婦になって20年が経つ。
子供はいない。
いや、正確にいうとひとりいた。
10年前までは・・。
とても笑顔のかわいい男の子だった。
今生きていたら来年は成人式を迎えていただろう。

十年前の夏休み、小学4年の息子Cと親子三人で出かけた小旅行。その途中でB男が運転する家族の乗った車は交通事故に遭い、息子Cは死亡。B男は重体。A子は軽傷だった。
事故の原因は夫の一瞬の居眠り…。

その日をきっかけにして、A子とB男の言葉、つまり会話は途切れたのだ。

意識の戻らぬ夫をベッドに残し、かすり傷のA子だけで息子Cの葬儀を出した。
どうせなら家族三人いっしょに天国へ旅立てたらどれほどよかったか…と、A子は神様をどれほどうらんだかしれない。
悪夢ではすまされない苦悶の日々が、そのときからはじまった。
ただ、愛する息子Cを突然に失ったことで、死という世界が身近なものになり、怖いものではなくなった。

死は愛するもの、死はあこがれの対象として存在するようになった。
できれば、すぐにでもCのそばに行きたい。もし夫が死の淵から戻ったとしても、以前の生活に戻るという意味ではない。

B男は、二ヶ月もの間眠り続けた後、意識を取り戻した。
さいわい脳に異常はなく、脊髄損傷から下半身に神経が回らず、車椅子での生活となった。

ベッドのB男を看ている間も、リハビリの間も、A子はB男に話しかけることができなくなっていた。

二ヶ月後にB男の意識が戻ったからといって、すぐに会話が成立するわけでもなく、口を開いても言葉が出ず、病院の医師や周りの人とは普通に話せるのに、B男にだけは言葉が発せられないという症状が起こったのだった。

そのことは周りの人の理解を得られなかったかもしれない。意識の戻った夫に声をかけようとしない妻を不思議がり、ある種の違和感を与えたかもしれない。

「ご主人に、何か話しかけてみては?」
などという看護師もいたが、踏み込みすぎと思ったのか、その後は言わなくなった。

そしてB男は退院し、懐かしい我が家へと戻ってみても、二人の間には言葉がなくなってしまっていた。
B男にしても、病院で何も話しかけてこないA子の態度はわかっていたし、その理由もわかっていたから、不満を口にしたこともない。
しかし、病院と違って、家庭に戻ってからの静寂さは、やはり異常な世界だとあらためて思う。

小さな仏壇の中から笑顔で迎えてくれている小学生の息子の写真に、改めて我が家に起こった惨劇に気づかされ、B男は涙を流して写真の息子に謝罪した。

「ごめんよ。ごめんよ。C…。ごめんよぉ。」B男は大声をあげて泣いた。

そんなB男を眼にしても、A子はやはり声が出なかった。
どこかに息子を奪った夫を許せない自分がいる。

B男も声をかけてこないA子の気持ちを考えてか、話しかけようとしない。
家庭といえない家。家族のいない家。空虚な家。・・

そんなある日、A子は息子とB男が使っていたトランシーバーセットを押入れの奥から見つける。
それはB男がCに初めてスキーを教えるために買ってやったものだった。

「そう、その調子。その調子。」

親子で頭に付けたトランシーバー。
父親の耳のレシーバーには、小学生になったばかりの息子の緊張した息遣いが聴こえていたに違いない。
そんな父子の姿を遠目に微笑ましく見ていた自分を思い起こす。

A子はある日、そのトランシーバーセットの片方のトランシーバーをテーブルの上にメモと一緒に置いた。

――話できなくってごめんなさいね。このトランシーバーはCが使っていたものです。見覚えあるよね。懐かしいでしょう。このセットを買ってきた日は、テストをかねてどこまで届くかやったよね。家の外に飛び出したCは「CQ、CQ、こちらはCです。パパ聴こえる? ママ聴こえる?…僕はいま角のポストのところだよ」なんて。…そこで、私、これ付けてみようと思うの。そうしたら話せるような気がして。もし気が向いたら付けて話かけてみてくれますか? A子 ――

広告